劣性遺伝

塩野七生氏が、文芸春秋に連載中のコラムで、「“劣性”遺伝」なる題で、絶滅危惧種である欧州のバッファローと、政治家の世襲を絡めて書いていた。
劣性遺伝ではなく、“劣性”遺伝となっていたからには、当然、劣性遺伝が遺伝子の優劣を意味しているのではないことは、塩野氏も踏まえてはいるのだろう。
しかし文中にはなんらエクスキュースは書かれておらず、劣性遺伝なる語の、ただでさえ誤解されやすい傾向に拍車をかける書き方だと思った。
私は血液型がO型なので、れっきとした劣性遺伝子保因者であるが、不愉快だとかそういうことはないが、科学用語をまったく異なった意味合いで、文学的な装飾として用いる行為はいかがなものかとは感じた。特に生物学は誤読されがちなので、文学的装飾と科学の境界が曖昧になり易い。
コラムの表題はあるいは執筆者ではなく編集者がつけているのかも知れないが、どのみち一流誌のやることではないよなと感じた。


[追記]
関連して、以下の記事があった。
疑似科学な塩野七生
リンク先の記事のおっしゃりたいこと自体は理解できるが、テキストに沿った解釈ではないと思う。言うなれば、「科学的」な読解ではない。
塩野氏の元記事の中では、劣性遺伝とは劣化した遺伝のこととは記載していないし、主張もされていない。主張もされていない“主張”を疑似科学と見なして断罪するのは、私ならば「言っても言っていないことを読み解く」だとか、「シャドーボクシング」と評するが、リンク先の記事にブックマークをして「塩野氏だから」で済ませている人たちは、元記事を読んでみたうえで言っているのだろうか。
元記事の題が「」付の「劣性」遺伝であることから、これが生物学的な意味における劣性遺伝を意味しているのではないことは明らかだ。
もちろん、ただでさえ誤読されやすい生物学の用語を文学的な装飾として用いることの是非は問題として問われるだろうし、私も上記でそのような問題提起をした。
しかし、塩野氏が用語としての劣性遺伝を誤用しているかのように言うのは、明らかに誤読である。
おそらく文藝春秋は自誌の読者の知識水準をある程度は高めに見積もっているのだろうと思う。劣性遺伝などは、科学用語だとうるさく言うほどのことでもない、高校一年生には習うような常識の範疇なのだから、当然それを踏まえたうえでの「言葉遊び」なのだろう。
私は文藝春秋の読者層をそれほど信用していないので、こうした科学の用語が本来の意味からずれた用いられ方をすること、それがたとえ文学的な比喩であったとしても、敢えて誤用を促すような用いられ方をすることを懸念しているだけであって、さすがに塩野氏はともかく、文藝春秋編集部が誤用があったとして、この程度のことを見逃すとは思っていない。
理系だ、文系だと言うのであれば、文系を舐めすぎだと言わざるを得ない。
もっとも、塩野氏の記事の中にも、誤読を促しかねない部分はあって、だからこそ上記の記事を書いたわけだが、顕著なのが「遺伝子の劣化」という表現。
ただ、仮に極端な雁首効果の結果、繁殖において悪影響をもたらす遺伝的な蓄積が淘汰されないという事実がもしあるならば、それを「遺伝子の劣化」と表現するのは、生物学者ならば避ける表現だろうが一般人ならばそれほど筋違いな認識だとは思えない。
確かに彼女の記事中には、「悪性の遺伝を劣性遺伝とする」と読めるニュアンスはあるのだが、そもそもそうした内容のことを彼女は語っているのだとすれば、だからこそ表題が劣性遺伝ではなく、「劣性」遺伝であることがなおのこと意味を持ってくる。
彼女が語っているのは劣性遺伝についてではなく、「劣性」遺伝についてなのだから。
もちろん繰り返すが、こうした書きようが問題がないとは私は思わない。
ただしそれは、知識のない人たちに敢えて誤読を招きかねない書き方の問題であって、彼女が誤用しているという問題ではない。


ちなみに似た例の問題として、免疫学者、多田富雄氏の言葉、
「女は存在だが、男は現象にすぎない。」
という言葉を上げておく。発生においてメスがオスのプロトタイプであるということを踏まえるならば、妥当な見解だが、男も現実に存在しているという事実を踏まえるならば、文脈を無視して誤読されかねない言葉である。
つまり、こうした科学用語の文学的解釈を招きかねない問題は、プロパーの科学者の発言にも存在するし、川原泉の「レナード現象には理由がある」のように純粋に物理学の範囲をずらして、文学的な意味合いを仮託するという意味では、創作全般にも存在する問題でもある。