沈まぬ太陽に描かれた「国航」の労組問題について

沈まぬ太陽について4回目の記事だが、反応等について。
前回の記事にid:Ez-style氏が

“仮にそれが事実であったとしても、労使交渉とはそういうものであって、それが労働組合委員長の正しい姿であろう。” そうなんだ。労組って鬼畜の集まりなんやね

とのコメントをつけていた。例えば外交交渉で相手の弱みに付け込むのを鬼畜とは言わない。
交渉の範疇であり、労組委員長が責任を負うべきなのは組合員に対してなので、その結果、ベターな成果が得られるならば、「そうしなければならない」ものである。
そして団体交渉権は労働三権のひとつであって、法が定めた労働者の権利である。
労働交渉を鬼畜と呼ぶならばお好きにどうぞ、であるが、そうした個人的な印象論を語っても仕方が無いだろう。池田信夫氏が、沈まぬ太陽に描かれたことが100%フィクションであると言い切るのであれば、何が事実であるかの同定が重要なのであって、印象論はどうでもいいからだ。
しかしここで引かれているエピソードが事実であるかどうかは、私は疑わしく思っている。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51298954.html
このエピソードのソースは吉高諄氏の「証言」であるが、池田信夫氏は、彼を小倉氏の前任の労組委員長と紹介しているが、それは事実ではあるが、小倉氏が委員長となった時には吉高氏は労務課長として労組と対峙する経営の前線を担っていたのであり、戦術について小倉氏と語る立場にはなかった。
聞いたとしても伝聞であろうし、信憑性は疑わしい。
吉高諄氏は労組切り崩しを行い、小倉氏を島流しにした張本人であって、どのみち好意的な証言が得られるはずもない。
念のために言っておくが、私は小倉氏と吉高氏を対比させて、小倉氏に加担しているわけではない。
小倉氏という固有名詞に肩入れしているのではなく、法によって担保された労働運動を弾圧する企業体質を問題にしているのだ。
小倉氏がどのような人であったとしても、それは彼の性格の問題である。
吉高諄氏がやったことは(彼だけではないが)、法治主義に対する挑戦であり、犯罪である。
日航労務政策に見られる差別的な人事慣行をなす人こそ、「目的のためには手段を選ばず、冷酷非情な人物です」と評されるべきだろう。
自己憐憫の余り自画像も描けなくなっているとは、三流のフーシェと呼ぶよりない。


http://twitter.com/ikedanob/statuses/5144218452
twitter池田信夫氏は、

沈まぬ太陽」が話題になってますね。あの小説は、JALの経営がでたらめなことは事実ですが、他の部分はほとんど嘘。特に主人公は共産党系の組合の委員長で、労使関係をめちゃくちゃにした元凶。

と言っているが、小倉氏をある意味、過大評価し過ぎだろう。
60年代半ばという、相当遠い過去に一時期のみ労組委員長だった人物であり、彼が属した労組を経営に切り崩され、仲間が「苛め」にあうのも止められず、自身は僻地を転々とするしかなかった人だ。
どこに労使関係をめちゃくちゃにするような力があるというのか。
また、こちら(http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51298954.html)で、池田氏は次のようにも言っている。

JALの経営がでたらめだったという山崎氏の見方は正しいが、その原因は彼女の描くように、正義の味方である労組を経営陣が弾圧したからではない。歴代の経営陣が自分の派閥のために組合を利用し、おかげで8つも組合ができて労使関係が崩壊したことが最大の原因だ。

組合を利用し労使関係をめちゃくちゃにしたのは経営なのか、アフリカにいた小倉氏なのか、もう訳が分からない支離滅裂さである。
日航の財務が悪化した原因は、ホテル事業の無定見な拡大(吉高氏が社長だった)、不採算路線の拡大(政治との癒着)にある。徹頭徹尾、経営責任である。
私はなにゆえ、池田氏がかくも小倉氏を敵視するのかその理由が皆目見当がつかない。
伊藤会長に見出されるまで閑職を転々としていた小倉氏に、JALを傾かせるほどの影響力があったと言う、経営の理不尽に対して、耐え忍ぶしかなかった非主流派の労組組合員(圧倒的少数派)が労使関係を硬直させる元凶となり得るほどの力があったという池田氏の見解が何に由来しているのかまったく理解しかねる。
よしんば、労組に何らかの責任があるとしても、最大労組のJAL労働組合は経営の肝いりで作られたのだから、割合的にも経営の責任であろう。
その経営の中核にいて労務問題を担っていた吉高氏の「証言」のみを根拠として、池田氏は小倉氏を非難している。
しかも、その非難は、経営や、ましてJALの財務とは何ら関係の無い、「小倉氏の人格」を槍玉にあげているのである。
昨日言ったことを繰り返す。これが科学者のすることであろうか。


今回、角川書店はリスクをとった。
JALはマスメディアに広範な影響力を持つ有力クライアントであるから、陰に陽に影響力を持っている。リベラル、保守の対立だけでは計りきれない利権の構造がある。
沈まぬ太陽」でも、こうした経済エスタブリッシュメントの一員としてのマスメディアに言及していた。御用組合JAL労組が連合に参加しているように、単純に労使対立、与野党の対立だけでは読みきれない複雑な利権がそこにはある。
http://www.jalcrew.jp/jca/public/taiyou/asahi-shintyou.htm
こちらのホームページで、「沈まぬ太陽」についてネガティヴキャンペーンを張った週刊朝日朝日新聞社)について次のように言及している。

Qせっかく関係者の取材をしたのに、どうして組合所属による差別や不当労働行為、不当解雇・分裂などの問題について第三者機関や組合に取材をしなかったのですか?

Q小説の主な登場人物と推定されるモデル一覧表の中に、なぜ重要人物である轟鉄也(元全労委員長、JTS副社長の大島利徳氏と推定されている)と権田宏一委員長(元全労委員長、現名古屋支店長の渡辺武憲氏と推定されている)の二人を除いているのですか?

なぜこのような重大な問題を朝日新聞は報じないのか、リベラルがきいて呆れる。
日本のマスメディアの宿阿として、系列化と集中があり、新聞とテレビ局の相互監視が事実上、不可能になっている。新聞はまだしも、テレビ局はつきつめるならば広告業であって、クライアントの圧力に極めて弱い。
日航は単に大手クライアントというだけでなく、取材協力などで広範囲にマスメディアに利益をばらまいているから、その意向をマスメディアは無視し難い。
逆に言えば角川がとったリスクとは、そのように巨大なものである。
日航を巡るステークホルダーは単に株主、経営、社員のみならず、広範囲に及んでいるのである。その癒着の構造こそが法治を軽んじる下支えとなり、社会資本を食いつぶしたと言う意味で、日航はまさしく戦後日本の縮図である。
だからこそその闇を暴き出した「沈まぬ太陽」は単にフィクションと言うに留まらない重要さを持っているのだ。

[補足]
TBがあった。
http://d.hatena.ne.jp/Ez-style/20091027#1256652022

それに「仕事上の問題で相手のプライベートを踏みにじる」ことを肯定するのは、結局のところ「社畜」の発想でしょ?経営者が従業員に対して家族を顧みずに仕事を強要することを批判するならば、従業員もまた経営者に対してもそれは同じ発想で応対するべきだと思うがね。

まず第一に、事の事実性が担保されていないということ。その状態で鬼畜と言うことの倫理性をどう捉えるのかということ。
第二に、倫理的な問題が価値観の問題であるのに対して、懲罰人事は法的な問題であるということ。労働交渉の枠内における駆け引きの是非はともかくとして、それを理由として懲罰人事を正当化できないこと。
第三に、労働組合は会社ではないということ。労働組合には経営に対して命令権もなければ、強制する権限もないこと。従って経営と労組を同列に見ることはナンセンスであること。
端的に言えば交渉に出席するかしないかについて、経営には自主的な決定権があるのであり、条件を交渉相手が飲まなかったからと言って、当然、飲まない権利は交渉相手にある。
労組の活動は組合員の生活に直結しているのであって、経営側に配慮しなければ鬼畜という発想が組合員の生活を軽視する社畜である。