歴史と政治とイデオロギー

私が繰り返し言及し、考えているのは、共通の歴史認識は可能か?ということなのかも知れない。
「歴史は歴史家が作る」という考え方に対するアンチとして、恣意的な歴史理解の弊害を克服するために、19世紀ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケは徹底的な事実中心主義を主張した。
「解釈は要らない、事実を以ってして語らしめよ」
という考え方である。
これ以来、歴史は科学になった、という人もいるが、もちろん歴史は科学ではない。科学的であろうとする姿勢そのものは必要だとは思うが、科学ならざるものを絶対普遍的な科学とした場合、それは科学の持つ批判精神から一番かけ離れた結果を招じやすいのであり、これは「科学的社会主義」がどのような変遷を辿ったかを見れば、科学という概念を乱用することは、批判を封じることにつながりかねないということを経験的に私たちは学ぶべきだと考えている。
歴史マニアによくあることだが、とある特定の個人に対する思い入れが強すぎるために、贔屓の引き倒しになっている場合がしばしばある。とにかくその人物に対するネガティヴな評価は我慢ならないというタイプである。
こういうのは確かに困ったものであり、そうした風潮があったからこそ、ランケが事実検証に拘ったのももっともな姿勢だったとは言える。
しかし21世紀の現在、ランケの姿勢をベースとすることは当然だとしても、その限界、弊害にもまた目を向ける必要がある。
Aというスタンスが妥当ではないとして、アンチAという姿勢があらゆる局面において妥当だということはないのである。得てしてある概念と対立概念は二者択一になりがちな傾向があり、AがダメならアンチAは「絶対的に正しい」となりがちだが、そんなことはない、アンチAには独自の弊害、問題があるものである。
ヒトラーの体制を是とする人は今日少ないだろうが、それと戦ったスターリンの体制を是とする人も少ないだろう。
例えばヴェトナム戦争で、アメリカを非難することは多いが、同じくその批判的精神は、ヴェトコン側、グエン・アイコックにも向けられてしかるべきなのだ。
一方を盲目的に称揚するために一方をいたずらに貶める批判は、それは批判精神から一番かけ離れた行為であろう。
ランケの言う、事実検証主義は、そうした弊害を相対的に小さくする手段ではあるが、もしこの事実検証主義を絶対視したならば、結果的にそうした弊害に捉われ、補強することにつながりやすい。
どういう事実をピックアップするかという時点で、人間の恣意が入り込むこと自体は避けられないからである。
アメリカはヴェトナムに対して経済支援を行った。
アメリカは南ヴェトナムから腐敗を一掃しようとした。
アメリカはヴェトナムの近代化を促進しようとした。
これはすべて事実である。ヴェトナム戦争におけるアメリカの立場を擁護しようとする人たちはこの点のみを叫ぶか、もしくは圧倒的とも言うべき姿勢で重視する。
しかし一方で枯葉剤の散布、ソンミやミライでの虐殺、膨大な死傷者について言及しないならば、この事実検証主義を絶対正義視することの危うさがどれほどのものかお分かりいただけるかと思う。
そうではない、恣意はまったくないとしたならば、事実検証によって恣意的な見方を補強することを招くのではないだろうか。
それは事実検証によって権威づけられているだけに、ただの偏見よりは非常に厄介な、しかし偏見そのものになることだろう。

歴史は価値観の体系にどうしてもならざるを得ないところがあり、これから逃れるためにはまずこれを認識すべきだ。いや、そうではない、それは中立的な科学だとしたならば、それは科学によって恣意的な思い込みを補強することに他ならない。
歴史とは過去への正当性の投影である。
歴史なき国家は非常に脆弱である。なぜならば、それは自らの行動を正当化する論拠を持たないからだ。アメリカは歴史のない国とも言うがそんなことはない。
アメリカは圧政者からの解放という歴史を作り上げ、その上に沿って建国され運営されてきた国である。
国家にとって、歴史=物語がいかに重要か、時に致命的なものになるか。
しかしそのような物語としての歴史は世界がひとつになるためには、乗り越えていかなければならないものだ。
共通の歴史認識の成立に私が非常に悲観的であるのは、物語としての歴史が他の物語としての歴史を飲み込むだけの結果に陥りがちだからである。
事実検証を踏まえ、なおかつその限界をはっきりと意識すること。他者を批判するよりも数倍の労力をかけて自分を批判的に検証すること。
そうした訓練が出来ている人は決して多くはない。
訓練というべきか、あるいは覚悟というべきか、あるいは勇気というべきか。
そうした姿勢がなければ歴史に学ぶことなど到底不可能だろう。せいぜいが歴史を利用することになり、利用された歴史観同士が非妥協的な対立を新たに生んでいく。
それくらいならば、歴史に学ぼうなんてしない方がいいのではないか、と最近感じている。