再び血統主義について

国籍法違憲判決では、準正要件が違憲である理由として以下のように述べている。

また,国籍法3条1項の規定が設けられた当時の社会通念や社会的状況の下においては,日本国民である父と日本国民でない母との間の子について,父母が法律上の婚姻をしたことをもって日本国民である父との家族生活を通じた我が国との密接な結び付きの存在を示すものとみることには相応の理由があったものとみられ,当時の諸外国における前記のような国籍法制の傾向にかんがみても,同項の規定が認知に加えて準正を日本国籍取得の要件としたことには,上記の立法目的との間に一定の合理的関連性があったものということができる。
しかしながら,その後,我が国における社会的,経済的環境等の変化に伴って,夫婦共同生活の在り方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており,今日では,出生数に占める非嫡出子の割合が増加するなど,家族生活や親子関係の実態も変化し多様化してきている。
このような社会通念及び社会的状況の変化に加えて,近年,我が国の国際化の進展に伴い国際的交流が増大することにより,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生する子が増加しているところ,両親の一方のみが日本国民である場合には,同居の有無など家族生活の実態においても,法律上の婚姻やそれを背景とした親子関係の在り方についての認識においても,両親が日本国民である場合と比べてより複雑多様な面があり,その子と我が国との結び付きの強弱を両親が法律上の婚姻をしているか否かをもって直ちに測ることはできない。
また,諸外国においては,非嫡出子に対する法的な差別的取扱いを解消する方向にあることがうかがわれ, 我が国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約及び児童の権利に関する条約にも,児童が出生によっていかなる差別も受けないとする趣旨の規定が存する。さらに,国籍法3条1項の規定が設けられた後, 自国民である父の非嫡出子について準正を国籍取得の要件としていた多くの国において,今日までに,認知等により自国民との父子関係の成立が認められた場合にはそれだけで自国籍の取得を認める旨の法改正が行われている。
以上のような我が国を取り巻く国内的, 国際的な社会的環境等の変化に照らしてみると, 準正を出生後における届出による日本国籍取得の要件としておくことについて,前記の立法目的との間に合理的関連性を見いだすことがもはや難しくなっているというべきである。

違憲判決そのものは憲法14条にのっとって示されているのだが、憲法14条を必ずしも「原理的」に適用しているのではないことが伺える。
準正要件が子の意思ではどうにもならない、不平等性を内包しているのは、今も昔も変わらないことであって、原理的に判断するならば、周囲の状況がどうであろうとも、過去においても違憲であったというしかなく、しかし過去においては合憲であったと言っているということは、状況の公益性から判断されているということである。
該当する子が100人中1人であれば問題とならず、100人中30人(仮の割合だが)程度であれば問題になるということである。
こうした態度は私がまさしく過去に批判した、「主流派の利益がすなわち福祉であると見なす態度」、奥様ファシズムの一種なのだが、私は判決のこの部分を強く批判したい。
立法や行政などでは、専業主婦優遇制度のように、公益の名のもとに(専業主婦制度はそれさえ論理的整合性を満たしていないが)制度にビルトインされた差別がままあるのだが、司法でさえこうした「例外的な公益の損失者」を肯定してしまうのは、遺憾な姿勢であると言わざるを得ない。
今回、この件に関しては司法は違憲判断を下し、公益による少数者への抑圧から脱したのであるが、国籍取得のような重大な権利においてさえ、こうしたマインドが土壌としてあるということは、基本的人権の尊重を謳った憲法秩序の不徹底であろう。
私はこの点、将来的な改革の必要を感じているが、ともあれ司法判断としては、そのようなものであると言うしかない。
つまり、現在において準正要件が是であるか非であるかはともかくとして、通常の法的な血統主義に加えて、それを補完する何らかの基準をもうけること自体は違憲ではないと見なされているということだ。
ただし子の意思ではどうにもならない要件を設けるのは今後は憲法14条違反となる可能性が強い。とは言え、そこで言う「子」とは我が国との密接な結びつきを持つ子に限られるのもおそらく確かなことである。
これが通常の法的な血統主義、認知による法的な血統のみで充分とは、場合によってはそうはならないこともあるのは、過去において準正要件が違憲ではなかったという判断が示されていることからも明らかで、生物的な血統者に限るという判断がなされることもあり得る。
これがつまり民法における血統主義が徹底して法的な血統主義であるのに対して国籍法の血統主義がそれと違った意味を持つという内容であり、解釈だけでも、民法の規定からやや外れた運用をなす余地があるという意味である。
もちろん、扶養実態がなければ、扶養目的での認知とは見なしがたいので、偽装認知の疑いが強まり、検挙が可能であることを踏まえれば、実際には非血縁者を扶養目的で認知する例はごく少数、年間でも二桁もいかないであろうことは容易に想像がつくから、実態としては放置していてもなんら差し支えない。
厳密な血統の証明を求める手間・費用・それによって実際の血縁者が排除されたり損失を被ることを思えば、公益を考慮したとしても明らかに釣り合わない話である。
そこまでの法的整合性を求める合理的利益がない、ということである。
ただ、あくまで論理的にはそうした思考の余地はあるのであり、今回の違憲判決は、あくまで「中立的」なものであって、理想主義の産物では必ずしもない。