公共は手段なのか目的なのか

書こう書こうと思って、延び延びになってしまっていた。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090509/1241801040
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090512/1242058823
上記の記事へのレスポンスとして。


出産に関する「公共性」については私はid:tikani_nemuru_M氏と基本的には同じ考えである。
出産には義務はないのだから、それは徹頭徹尾、個人の趣味である。もし個人の趣味でないのだとすれば、出産という行為の中に公共性が入り込むことは避けられない。
それはつまり、優生思想を否定できないと言うことであり、優生思想を是とすることが問題と言うよりは、優生思想を是としなければ論理的整合性がとれない矛盾を抱え込むことが問題なのである。
シンガポール政府はこうしたことに関して、徹頭徹尾、パターナリズムであるから、「産むべき人/産むべきではない人」「産ませるべき人/産ませるべきではない人」を選別している。
虚飾を剥ぎ取って言えば、仮に充分に出生率が満たせるのであれば、以下の人たちの子はこの産業社会の中でより望まれない子である。


・先天的な障害者の子、あるいは近縁に先天的な障害者がいる子
知能指数の低い人の子
・社会的不適合者の子
低所得者の子
・低学歴者の子


市役所が新しくコンピューターを購入するとして、性能やサービスが同じふたつの会社があるのであれば、より価格の安い(支出がかからない)ものを選ぶべきだろう。
また、同じく政府がある産業に投資するとして、他の条件が同じならば、最もリターンが見込める分野に投資するべきだろう。
それが公共の正義であって、出産という行為に公共性を絡めるということは、そうした商品として人間を扱うという話なのである。
出産支援を公共という文脈から正当化する人は公共を徹底して考えていないだけである。
そして、第二の命題についても、私はid:tikani_nemuru_M氏と見解を同じくしている。
出産自体は親の趣味であるが、生まれてしまえば生まれた子は、独立した人格を持つ保護対象となる。これを保護することには公共性が生じる。
生まれてしまえばそれは一個の人間であり、一個の国民であるから基本的人権を保障したこの社会の取り決めに沿って処理される必要がある。
そして保護が必要であるならば、保護を与える行為には公共性が生じるのである。
違うのは結論部分である。


id:tikani_nemuru_M氏は、
・出産自体には公共性はない
・保護行為としての育児には公共性がある
・従って親による育児は公共的な行為である
としている。
私の見解は、
・出産自体には公共性はない
・保護行為としての育児には公共性がある
・従って本質的に私人である親に公共性を委ねるべきではない
ということになる。
育児に疲れている親が、「育児という行為を放棄したい」というのであれば私は是とする。「育児と言う行為を行っているので公共支援が必要だ」というのであれば、是としない。
育児という行為は愚行権の一種として肯定されるべきだが、それは基本的には自己責任である。ただし過去の選択によって支払うべきコストが多大すぎるというのであれば、リセットをする自由が与えられるべきだろうとは思う。
リセットすると言っても、生まれた子を殺すわけにはいかないので、親権の放棄をもっと容易にすべきだという考えである。
親権を維持したままで愚行権によって生じたコストを他者に依存するのは甘えというものである。


さて、そうするとおそらく、子がいないと社会が存続できないではないかという「反論」もあるだろう。
まず、それは短中期的には事実ではない。移民を受け入れ続ければ、世界全体で人口増加傾向が続くならばおそらく百年や二百年は持つ。百年後や二百年後に「起きるかも知れない問題」は私たち、つまり今のこの公共の問題ではない。
仮に、社会を存続させることが是であるとして、そのために親の愚行権の結果としての育児コストの負担を他者が行わなければならないとして、それが百年や二百年先に延ばせるならばそうするべきである。その間に、他者が支払うコストは存在しなくなるのだから、それがより、最大多数の最大幸福に適うことである。
そしていよいよその時になったとしても、社会が存続できなくなったとして、それでなにか不都合があるのかという問題になるだろう。
つまり、社会は存在している人々のために手段としてあるのか、社会が存在すること自体が目的で人々の方がそのための手段であるのかという問題である。
後者の立場は純粋な意味でファシズムと呼ぶべきだろう。
もちろん私はファシズムの立場に立たないので、人を手段とは見ない。
人のために国家があるのであり、国家のために人がいるのではない。
id:tikani_nemuru_M氏は、「出産が趣味であること」「育児に公共性があること」を分離して理解している点で、公共が本来的に持つファシズム性の危険に自覚的である。
しかし、親権と育児を所与の条件として分離せずに考察している時点で、結局のところ、最終的にはポジショントークに堕してしまっているのである。惜しむべき、というべきだろう。