あなたの子は私の子ではない

移植を待つ親は、子が脳死になったら臓器を出すか?
このシビアな選択が日本人の親に突きつけられていなかったのは、これまで児童の脳死臓器移植が国内で認可されていなかったからで、その選択の責務を外国人に負わせ、自らは利益を享受するだけだったからだ。
親としては、脳死になった自分の子から臓器が摘出されるのは耐え難い苦痛であろうことは容易に想像できるが(子がいない私でさえ、想像しただけで胸が痛むのだ)、その他人の苦痛の下にこれまで日本人は外国で命を買ってきたのだ。
どう言葉を言いつくろったところで、構造は変わりはしない。
人間の情、特に親子の情が絡めば、アンタッチャブルな聖域化され、批判も出来ないようになるのはいい加減やめるべきではないか。
児童ポルノが保護者の承諾のみならず、形式的な当人の承諾があってさえ児童ポルノ犯罪として成立するのは、児童の自主的な意思がそこにあるとは見なされないからである。ならばどうして臓器提供という当人の身体に関する最低限度の自由がかくも軽視されるのか。
突き詰めて言うならば、それを求められるならば、児童の臓器提供がなければ生きられない者は死ね、と私は言っている。
しかし同様の徹底さを私のこの見解に対する批判者にも求めるならば、当人の意思確認さえどうでもよいままで、他人の臓器を奪えとその人は言っていると見なされなければならない。
仮に自分の子が臓器移植を必要とする状態であれば、それは迷いが生じるのは当たり前である。自分の子であれば、たとえ他の子の犠牲を必要としようとも自分の子は生きていて欲しいと願うのはむしろ当然だろう。
だがしかしそれも利己的なエゴであるには違いない。
私にとっては、脳死した子も、その子から臓器を提供されなければ生きられない子も、等価値である。社会全体の子は、この等価値の子として考えなければならない。


仮に、臓器提供を望むばかりで、自分は臓器を提供しない(自分の子にはせさない)人がいるならば、それを受容できるかどうかは、単にその割合の問題である。百人のうち一人二人ならばエラーの範囲内だろうが、百人のうち十人、二十人にもなればシステムを棄損しかねない。
システムを棄損しかねない行為であるということは、子を思う親の情をもってしても覆すことは出来ない。
法的にどうであるかは別として、システム保全の観点から見れば批判される行為であるのは当然である。
私は児童に臓器を提供させるというシステム自体が、児童の自己意思を確認できない以上、無理筋のシステムであると思うが、そのシステムを作るのであれば、最低限それが機能するように作っておく必要はある。
「臓器提供を望む者は、当人(児童)が脳死状態になった時に臓器提供を義務付けておく」ことはあらかじめ予想して手を打っておくべき方策であろう。なんとなれば、いざその時になれば親が子の臓器提供をためらうだろうことは人の情からして充分に予想される事態だからである。
また、こうした義務化は、選択の余地を親から奪うことによって、選択の責任から解放することにもなる。
私はその「解放」は児童の臓器移植を認めないというレベルでなすべきだろうと思うが、それを認めるにしても、システム保全の観点からも、親の負担軽減の観点からも、義務化によって解放がなされた方が望ましい。