平和と暴力

http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20090714/1247502897
id:zyesutaさんには申し訳ないのだが、お書きになっている内容はごく常識的、かつ既知のものであるように思える。それだけに逆に言えば、zyesutaさんの軍事、と言うよりも防衛政策啓蒙記事が注目を集めるということ自体、日本のブロゴスフィアでそれらを書く意味があるのだろう。
ピースボートの主張が荒唐無稽であるということに異存はないが、彼らとしてもそれは分かった上で言っているのかも知れないとは思う(買い被り過ぎかも知れないが)。
私自身の考えは以下の通りになる。

・日本領海、及び公海上で日本船舶の安全な航行を実現する責任を政府は負っている。
・しかしその範囲は必要を満たすものにとどまるべきであり、なるべく最小限であることが望ましい。
・日本の経済活動の拡大に伴い、その範囲が日本の近海に限られないのはやむを得ないことである。
・だがその活動範囲の拡大は、軍事活動への転化、専守防衛の原則からの逸脱を招く危険性も孕んでいる。
・従って、必要を満たすと同時に、範囲が必要を越えて拡大しないようにするためには、その活動を制限しようとする負のベクトルも必要である。
ピースボートの主張は単独の防衛政策としては荒唐無稽だが負のベクトルとしては有用である。

ピースボート(に代表される左翼)の防衛政策への忌避は、ファンタジーの表れとしてではなく、バランス・オヴ・パワー、極度のレアルポリティークとしてなされている可能性がある。
四捨五入して戦後約70年、フリーライドであれなんであれ、平和主義のファンタジーから日本は利益を引き出してきたというのも現実である(むろんそれが今後も続く保証はないが)。
例えば、中国やアメリカのうちに、日本の軍事大国化(精神レベルにおいても)の進行への危惧が強くあるのであれば、それは日本の弱みと言うよりは彼らの弱みであって、公海上の安全というインフラの整備のコストも、程度としては押し付けることは出来る。もっとも、今回問題になっているようなことであれば、彼らはむしろ日本を引き込みコスト負担を押し付けようとするだろうが。
ピースボートが基本的に、そうした日本封じ込め勢力と親和的であるだけに、彼らの主張は使い勝手がいい。
もちろんzyesutaさんはこの種の更にメタな視点をも踏まえた上で、啓蒙としてお書きになっておられるのだろうと思う。


一国の内部にあっては警察権力などの合法的暴力によって統御されていると期待できるのだが、政府の弱体化やそもそもの保護範囲の設定が国ごとによって違うなどの文化的要因によって、政府の保護が国内でも期待できない状況はある。
パール・バックの「大地」は清末の状況を描いているが、王朝の弱体化やもともと民政への意欲の欠如もあり、富豪となった主人公の王龍が財産を保全するために政府の助力を期待できる状況ではない。
各地の富豪が次々と野盗に襲撃される中、王龍のみは無事だったが、やがて彼はその理由が彼の叔父が野盗の頭目であるからだと知る。叔父はそれを理由にして王龍に寄生するが、いて貰わなければ困るがと言って増長されても困るこの叔父を、王龍は「孝行」を名目として阿片を与えて、飼い潰す。
「大地」は無政府状態においていかにして秩序が形作られてゆくかを描いた小説とも読むことが出来るが、いずれにせよ、何らかの秩序は形成されてゆくのである。
血と暴力によって統制されたマフィアの秩序のようなものであっても、それが存続してゆくためにはいずれ必ず「法治化」してゆく。
国際社会にあっては、国それぞれが、この種のマフィアの頭目的プレイヤーであるのだが、そこでは戦争は秩序を導き出すためにむしろ不可欠の行為となり、このメカニズムと戦争技術の均衡が崩れたことが、20世紀初頭における世界大戦の続発につながり、それが戦争の不可能を導き出した。
この戦争の不可能は大国同士の関係においてより強く働くのだが、ヴェトナム戦争イラク戦争の状況は、対中規模国家に対しても働くことを示していると思われる。
ソマリアやマラッカの海賊がのさばるようなことは、19世紀には考えられない事態であるが、この事態は、「戦争が出来ない国際社会」という現実がもたらしているとも言える。