首相の謝罪

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http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/8249792.stm
アラン・チューリングを同性愛行為を理由として、不当に扱ったことについて、英国のブラウン首相が公式に謝罪した。
かつてそういうことがあったと聞いて、非常に驚いたのだけど、1952年、チューリングは同性愛行為を告発され、公的な地位を剥奪された上、化学治療を受けるか、刑務所に収監されるかの二者択一を迫られ、後者を選び、2年後に自殺したという。
ドイツ暗号解析で知られるエニグマの開発者として知られるチューリングだが、チャーチルの言を模せば、「かつてこれほど少数の者に多数の命運がかかっていたことは無かった」とも言える貢献を大戦において成したと言える。
その彼にして、晩年にこうした悲劇があった。


国によって、どのマイノリティに対して風当たりが強いのか、違いがあって、日本でもほんの最近までハンセン氏病患者への差別的な扱いがあったことを鑑みれば、単に「英国の非道さ」をあげつらえば済むものではない。
しかし、1952年に、戦後になって、そのような物理的・身体的拷問とも言える措置が正当化されていたということにはやはり驚きを感じずにはいられない。日本もまたユートピアではないが、それにしても日本ではちょっと考えにくいことだ。
戦後においてさえそのような措置は罷り通っていたということは、やはり英国社会の特殊性、異常性を考慮せざるを得ず、こうした政府の謝罪はむしろ、免罪符として作用してしまう恐れがある。
差別には公式のものと非公式(インフォーマル)なものがあり、公式での「非差別性」が非公式での「差別性」を覆い隠してしまう恐れがある。
先日、オーストラリアのラッド首相は相次いだインド系住民への襲撃について、人種差別的な要因によるものではないと言った。
その発言は、一般的な犯罪に事件を落とし込むことで、オーストラリア社会にある差別性から目をそらそうとする心理からなされていると言うしかなく、移民国家であれば当たり前である「多民族国家」をむしろアドバンテージとして、「人権」の御旗を手に入れようとしているかのように見える。
「人権」が無謬の価値である現代の世界にあって、「人権擁護」のアドバンテージを入手することは人道的な問題というよりは戦略的な問題である。
どうにも否定しようのない過去の差別については、公式に謝罪をして、封じ込め、武器として人権を活用しようとする意図がそこにはあるように思う。
つまり、彼らが重視するのは人権ではなく戦略的武器である。
クロナラ暴動やカレーバッシングは、オーストラリア社会に根付く、レイシズムの表れであり、それが「根付いたもの」であるだけに政府の見解だけではどうにもならない、厄介な現実をもたらしている。
政府の謝罪はそうした現実から目をそらす言い訳となってしまう危険があり、おそらくはそうした意図もそもそも含まれていると考えられる。