サッチャー逝去

サッチャー夫人はもちろん生きていたが、実際には既に歴史の人だった。認知症を患ったこともあり、21世紀に入ってからは目立った動きもなかった。サッチャーは文脈の人である。それ単体では評価は出来ない。彼女が首相として登板した1979年には、石炭労組と政府の対立が頂点に達していて、既に事はエネルギー政策の範囲を越えて、統治案件の問題になっていた。
変化は突然来る。例えば、海運のコンテナ輸送が本格化する1960年代、世界のすべての港で独自の世界を形成していた港湾労働者の社会はわずか数年で消滅した。コンテナ輸送の影響は迅速でなおかつ圧倒的であったので、港湾労働者の労組はおりおりに雇用者と戦い、それなりの成果を手にしていたが、雇用者を含めた業界そのものが押し流されることによって、成果を手にしつつ滅びて行った。
英国は世界最初の産業革命を経験した国であり、石炭産業は伝統産業であり、単純な一産業の問題ではない、労働者の生き方の問題であった。どこの国よりも歴史のある石炭産業は石炭労働者の「生き方」の問題に直結し、それゆえに、石油・ガスへとエネルギーシフトが進んでも、歴代の政権はここに手を付けられなかった。また、石炭労組も戦って生存の余地を無理やりに獲得しない限り淘汰されてゆくのは明白であったので、スト破りに対して殺人で報復するなど無理に無理を重ねていた。
サッチャーが首相として対峙した状況はそういうものであって、交渉すること自体がすでにウェットであり、どのみち石炭産業には消滅以外の選択肢がなかったのだから、妥協もなし難い状況であった。そういう状況の中で、石炭労組はリビアから資金援助を受けたり、冬季に供給を止めたりして、政府を揺さぶろうとしたが、政府が統治能力を維持しようとすれば、もはや妥協の余地はまったく無かった。
石炭労組を率いたスカーギルは、重要なのは炭鉱労働者の雇用であり、雇用が維持されている限り、採算性は問題は無いと主張したが、英国は孤立して生きているわけではなく、競争社会の中で生きているのだから、エネルギー政策のようなすべてのあらゆる産業のコストに影響するような分野において極端に社会主義的な政策を維持することは、国際的な資本主義世界において脱落することを意味した。これを「交渉」によって解決しようとした歴代政権のやり方が行き詰まったからこそ、労働党政権に対してすら石炭労組は非融和的になり、国民を人質にとった「不満の冬」を引き起こしたのである。
未来から過去を見ても、あの状況ではサッチャーが政府を運営するか、スカーギルが統治を行うかの二者択一であって、そこで逃げなかったところにサッチャーのある種の偉大さがある。


信念の人、という。彼女を評してよくそう言われたし、principle という言葉もよく用いられた。彼女をして「鉄の女」と呼んだのは元はソ連国防省の機関紙であったが、これはもともとは「鉄の処女」の意味で、魔女狩りに用いられた中世の有名な拷問器具である。それを知ってか知らずか、彼女はこの呼び名を気に入り、非妥協的な信念の政治を象徴する言葉としてこの言葉を用いた。
しかし考えてみれば政治と言うものは妥協の産物であって、信念の政治というのは、政治と言う行為をあらかじめ裏切っているとも言える。政治は相手をまず認めて、交渉と説得によって成果を築いてゆくものという考えからすれば、信念の政治というものは語義矛盾であるように見える。
一方で、当時の英国では直近の例としてはウィンストン・チャーチルの例があり、「ナチスに非妥協的であった彼が結局は正しかった」というコンセンサスは、信念の政治なるものが成立し得る、そしてそれが倫理的にも効果的にも正しい結果をもたらすという認識を強化するものであった。しかし、と詳細に見てみれば果たしてチャーチルが信念の政治家であったのかどうか、疑問が残る。第二次大戦後、彼はいち早く共産主義の脅威を警告したが、1939年以後、「ソ連は謎の中の謎」としながら接触に熱心であり、連合国の陣営に引き入れる余地を残して、実際に引き入れたのもチャーチルだった。ヒトラーに対する対応とスターリンに対する対応の違いを見れば、チャーチルにはむしろ「原則」や「信念」がなかったことが伺える。あるとすれば状況と国益の判断であり、ヒトラーの脅威とは非妥協的に対応しなければならないが、ソ連とは妥協が可能だとした当時の状況判断が何に由来したのかは、例えば英国との距離の違い等、様々な要因が絡み合っている。ヒトラーという脅威が消えて、中欧に勢力の空白が生じると、ルーズヴェルトをせっついてソ連に対峙するよう急いで方針転換を行うよう提言したのもチャーチルであったが、ここではむしろ節操がないといっていいほどの原則の欠如が見られる。
チャーチルは成功した部分については、状況に応じて柔軟に対応した政治家であって、トルコ・ギリシャ制海権の問題や、植民地解放の問題等々、原則的に対応しようとした諸問題についてはむしろ失敗している。
その失敗が壊滅的に生じたのは、(二度目の)チャーチルの政権を継承したイーデン政権であって、インドへの道を確保するという英国戦略の大原則を維持しようとしたイーデンはスエズ紛争でこてんぱんにしてやられ、英国の落日を決定づけた。むしろナセルとの間で、交渉によって「度量」を示し、幾分かの権益を確保していたならば、「美しい撤退」が演出できたはずで、原則への固執がすべてをご破算にしてしまった例が、チャーチルよりもなお直近の例としてサッチャーには与えられていた。
しかし彼女はその後も、原則への固執を打ち出してゆく。
例えばフォークランド紛争では、フォークランドではいわゆる先住民の問題は無いが、歴史的に非常に複雑な領有権の推移を示していて、アルゼンチンの言い分にも全く根拠がないとは言えない(ただし、私の考えではアルゼンチンそのものが侵略によって築かれた国家であるので、その領有権の問題は基本的にはナンセンスな話であると見ている)。当時の軍事政権を率いていたガルチェリ大統領は実際に諸島を軍事占領したので、英国も何らかのレスポンスを強いられることになった。
ここで軍事作戦の展開を選択したのは、サッチャーらしいが、意外でもあって、当時は多くは外交交渉を通して解決を模索するのではないかと見られていた。フォークランドの戦略的重要性というのは二次的・三次的なものであって、当時の英国にとっては致命的なものではなかったし、アルゼンチンと英国は貿易関係において緊密でもあったからである。また、西欧諸国はおおむね英国を支持、南米諸国はアルゼンチンを支持したが、フォークランド固執する英国の姿は帝国主義を想起させかねないものであり、日本政府もサミットの友好国であり又同盟の関係にありながら、中南米における日系人の立場に配慮して公式の英国支持にまでは踏み込めなかった。当時のレーガン政権は表向きは中立、実際には内実は英国に加担していたが、これがアメリカの国家意思の表れと言うよりは、レーガンの個性によるものであって、アメリカの支持を得られるかどうかは実際には博打に過ぎなかった。
紛争では実際にはレーガン政権はサッチャーを陰ながら支持したわけだが、領土問題としてはなお残るフォークランド問題において未来永劫、アメリカが英国を支持することを約束するものではない。ここ数年、アルゼンチンでは再び「マルビナス問題」が争点として高まりを見せているが、オバマ政権は英国が期待するほど英国に加担する姿勢を見せていない。
サッチャーが軍事的作戦を選択すると言う決断において、もっとも重視したのが国の威信というような抽象的な概念であったのは明らかであるが、そこにはレアルポリティークは実際には軽視されていて、アルゼンチン側に弱点が多かったがゆえに結果的に勝利を得ることが出来たが、彼女の外交政策はプロフェッショナルな視点はむしろ軽視されていてイデオロギー的な視点が強かったというひとつの表れである。
ただしそのイデオロギーというのは、自由主義や民主主義と言う理念的なものではなく、ユニオンジャックへの忠誠というある種の利権主義である。利権主義であるから、利権に徹してレアルポリティークで運営されるかと言えばそうでもなく、時に反共主義による、時に愛国主義による論理の飛躍があった。レアルポリティークと感情の飛躍、没理念的でありながらイデオロギー的でもあるという矛盾、これらはサッチャー政権の外交政策を彩っていて、チリ軍政への支援や、南アのアパルトヘイト政策に対する毅然とした姿勢を示さない態度など、今日的な理念から見れば断罪されるべき要素を数々抱えていた。
一言で言えば右翼的ということであって、彼女の看板であった自由主義的ですらない。原則がありそうでなく、かといって冷徹なレアルポリティークもなく、政府の運用と言う点においては、サッチャーには外交政策といえるようなものは無かったというしかない。
ただし右翼的という一点において筋が通っている外交政策は、レーガンとの盟友関係もあって、80年代においては結果的にぴたりとはまった。それはソ連側にゴルバチョフが登場したという文脈もあってのことであるが、ここでもサッチャーを単体で評価することは難しく、あくまで彼女の価値は、当時の文脈に落とし込んで、結果として生じるものでしかない。
サッチャーは幸運な政治家であって、彼女のような人は80年代以外には成功の余地はなかったと言えるのかもしれない。
実際、90年代以後、彼女は挫折の連続であった。
挫折と言うのは、党内クーデターで首相の地位を追われたことや、人頭税導入が阻まれたことのみを言うのではない。80年代の新保守主義の試みの多くが結果的に失敗して、揺れ戻しが生じたことを言う。ブレアは「人間の顔をしたサッチャリズム」を掲げて、実際、自由競争路線の大枠は維持しようとしたが、労働党としてはサッチャリズムの結果生じた惨状たるコミュニティ崩壊に手を付けずにはいられず、サッチャリズムはむしろ乗り越えられるべきものとの評価も定まりつつある。
サッチャーの有益性はあくまで70年代の状況と対比してベクトルとして評価されるべきものであって、その政治姿勢単体に世代を越えて、時代を越えてゆく真理のようなものがあるわけではない。だからと言って、80年代において彼女が成し遂げたこと、その多くは彼女の長所よりはむしろ性格的な欠点がもたらしたものであるが、それが否定されるべきものではない。
彼女の政治家としての価値、歴史における真価はむしろ、彼女がどういう人であったかということではなく、彼女がどう対峙したかということにあらわれている。
70年代の福祉主義は社会の停滞をもたらした。
80年代の自由競争主義は社会の荒廃をもたらした。
現在、私たちはその結果において生きている。ここから教訓として言えるのは、ある政治姿勢、それがいかに筋が通っているように見えても、イデオロギー的な絶対性を帯びて無批判の無謬性が生じる時、それが徹底された時には必ず社会の混乱をもたらすということである。社会民主主義の対する反対のベクトルとしてはサッチャリズムは有益であったが、それ自体に有益性があるわけではない。逆もまた同じである。
妥当な真理とはどこかに絶対的に存在するものではなく、私たちの、多くの違った立場から生じる、戦いと対話の営みの中から、その運動の結果として生じるものである。