生贄としての知的障害者

私が感じているのはある種の危険である。

▼香芝のわいせつ事件 再審請求を目指す
 ■母、「情報を」
 息子は無実です――。そう訴え、刑務所にいる息子のために「真犯人」を探し続ける母親がいる。熱意が大勢の人を動かし、支援の輪が広がっている。(成川彩)
 事件は06年12月12日午後10時過ぎ、香芝市真美ケ丘2丁目の路上で起きた。
帰宅途中の16歳の女子高生が男に背後から羽交い締めにされ、胸や下半身を触られた。
 「犯人は身長180センチほど、白いニットのマフラーをして、直前に携帯電話で話しながら、道を尋ねるふりをした」。そう証言する被害者は、警察で12人の写真を見せられ、1人を指さした。それが、大和高田市の会社員中南まり子さん(57)の次男・源太さん(28)だった。
 ■自白
 20日、源太さんは逮捕された。
 源太さんには軽度の知的障害があった。若い女性に衝動的に抱きついてしまい、逮捕され実刑判決を受けた過去もある。自宅も現場から直線で約3キロと近い。
 任意同行直後こそ否認した源太さんだが、その日中には犯行を「自白」した。後に源太さんは訴えている。「取調官から『否認しても刑務所や』『否認したら8年、認めて2、3年で終わらせたらどうや』と言われた」
 ところが、過去の事件では素直に犯行を認めた源太さんが、この時は違った。翌21日から再び否認に転じ、今日まで無実を訴えている。
 その「自白」のずさんさは、後に明らかになった。
 源太さんの「自白」は、被害者の証言通り、「私は犯行直前、携帯で電話した」となっていた。ところが、その時刻に携帯電話の通話記録がない。弁護側に矛盾を指摘され、検察官は自白調書の証拠申請を撤回してしまった。
 物証は何もない。被害者の証言に合う服は自宅から発見できず、周辺の防犯カメラの映像もない。源太さんの身長は168・4センチで、被害者がいう180センチとはかけ離れていた。まり子さんは「事件の時刻、息子は私と自宅でテレビドラマを見ていた」とアリバイも主張した。
 ■再現実験
 上告審を前に弁護団は今年4月、事件の再現実験を行い、証言の信用性を検証した。事情を知らない若い女性6人に夜、1人ずつ現場を歩いてもらい、160センチ前半の身長の弁護士が、犯人とほぼ同じ行動を取ってみた。
 2日後、6人に12枚の写真から犯人を選んでもらうと、当てたのはたった1人。人相の説明もばらつきが目立った。一方、身長は全員がほぼ正確に「160センチくらい」と答えた。
 しかし、被害者が「この人です」と断定したことが決め手となり、奈良地裁葛城支部で懲役2年6カ月の有罪判決。今年6月には最高裁が上告を棄却し、刑は確定した。
 「絶対あきらめない」。まり子さんは、今も犯行現場付近でビラを配り、「真犯人」の情報提供を呼びかけている。母子や弁護団の訴えが共感を呼び、「中南源太さんを守る会」も発足。再審請求に必要な新証拠となる情報を探している。
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000912280001

知的障害者が誘導されるがままに冤罪被害者になっているケースは相当あると思われる。
この件の問題は物証が無いまま、被害者の告発のみで「自白」があるからと、最高裁まで行って刑が確定してしまっている点だ。
健常者が容疑者の場合でも乱暴な判決だというしかないが、ましてこの場合は知的障害者が容疑者となっているのである。慎重の上に慎重であってしかるべきなのに、むしろ知的障害者であるのをこれ幸いとして、無理やり一件落着としているように見える。
国内的な司法で救済できないならば、国際的な枠組みで救済は出来ないだろうか。


ただし私の思考の主眼になるのは、仮に知的障害者が痴漢加害者であったとして、の話になる。
知的障害者は性的衝動をどれだけ理性的に統御できるのだろうか。この人に痴漢で実刑を受けた前科があるように、責任能力はあると見なされている。
しかし養護学校での性教育が過去に問題になったように、実際には性衝動抑制の責任能力において健常者と同等に見なすことは無理だ、というしかない。
犯罪における責任能力のみ健常者と同等に扱うことで、日本の司法は知的障害者として生まれたという不可避的な属性を裁いてしまっているのだ。
話はずれるが、関係する話としてついでに言っておくと、私はよくテレビで福祉番組を見るのだが、そこで取り上げられる圧倒的な事例は児童についてが大半であり、いわば「可哀想な、しかし純粋な子供たち」あるいは時には好奇心をくすぐる「サヴァン症候群的な潜在能力を秘めた子供たち」という文脈のみで処理している。
しかし当たり前のことながら、養護学校の子供たちも第二次性徴を迎え、保護者である親も老いて行き、やがては孤独に放り出されるわけで、知的障害者の性的処理の問題、物理的自立、経済的自立の問題等々、一番の難題が隠蔽され、語られずに放置されている。
養護学級の子供たちに歌を歌わせて「子供たちの目は輝いていました」というように閉めるのは百害あって一利なしというしかない。
知的障害者の性的衝動において責任能力が疑われるならば、予防拘禁ということも手段としては考えられるだろうが、そこまですれば知的障害者に対する積極的な人権侵害になりかねず、むにゃむにゃとお茶を濁しているというのが実情だろう。
その結果として、明らかに責任能力に疑義があるようなケースでも知的障害者実刑を負ったり、冤罪被害を被ることが生じている。
どうしたらいいのか、と聞かれてこうすれば良いと素人の私が即答できるようならそもそも問題にはなりはしないだろう。
結局のところ、私もまたむにゃむにゃとお茶を濁すしかないのだ。
本当に、どうしたらいいんだろう。