龍馬伝、第二話、感想

2010年の今年も年末には「坂の上の雲」が放送されるわけで、それに伴って「龍馬伝」も通例よりは一ヶ月短い放送期間になる。そのせいなのか、随分展開が早いように思われる。
去年の大河では子供店長がいちやくブレイクしたが、今年は第一話の半ばで早々に子役が退場したためブレイクする余地もないだろう。
第二話では既に龍馬堤のエピソードが描かれ、来週にはもう江戸に出立するようだ。ドラマ内の年齢で龍馬は既に18歳、龍馬が31歳で死んだことを思えば、異常なほど駆け足で進行している。
通例ならば第五話くらいまでは、子役で引っ張るはずで、いくらなんでも、進行が早すぎはしまいか。もっとも、話がテンポよく進んでいるだけに、この流れを維持できるならばそれに越したことはない。
どの役者も良い味を出しているが、ジェントルマンの役をやらせれば、やはり児玉清さんはぴたりとはまる。最近は余り大河では見なかったが「太平記」で演じた金沢貞顕が印象に残っている。
金沢文庫の拡充者を演じて説得力があった。あの役ならば、石坂浩二さんでも適役かも知れないが、厳父でもあり慈父でもある今回の役は、児玉さんのためにあつらえられたような役だ。もはや龍馬の父は児玉さん以外には考えられない。アタック25の司会が氏以外に考えられないのと同様である。


第二話では、農民に、下士である龍馬に対して「上士は執政を司っている。わしらは米を作っている。下士は何の役にもたっておらん」と言わせている。上士対下士郷士)の身分差別に、更に農民を加えることで、身分差別の構造が深く掘り下げられている。
地下浪人である岩崎家が百姓から侮られ、また、彼らが百姓を蔑視するという表現もあり、土佐勤皇党へと到る動きを単純なプロテストとはしない意思が感じられた。土佐勤皇党自体はそうした線で描かれるのかも知れないが、龍馬は勤皇党の主流から意識的に外れていった人であり、その伏線になっているとも言える。
龍馬の本質を斡旋家、つなげる人だとするならば、その内部はむしろ空虚であるべきで、自由な精神とはつまり「故郷を持たない」ということならば、下士のコミュニティにどっぷりとつからせてはならないのである。
もちろんこの時点では龍馬は完成された龍馬ではなく、ただの土佐の下士の次男坊に過ぎないから、いきなり四民平等やら、日本という国民国家を語られても困るのである。
龍馬堤の描写で、余り感心しなかったのが、龍馬が肉体労働をするところだった。もっとも、この場面は他人の気持ちを分かるために敢えてそうしたのだという解釈も可能で、他人に見せるためにそれをしたのではない、あくまで個人的な動機であり社会的な動機ではないということは可能だが、労働をしてしまえばもはや貴族ではない。
後の龍馬ならばともかく、この時期の龍馬がそれをするというのは士の誇りを失うということである。
果たして龍馬が俵を背負ったかどうか、いささか疑問だ。