幻のガラパゴス

http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20100708/1278610532
こちらのご意見におおむね同意。
英語を社内公用語化することよりも、即効的に意味があって重要なのは社内文書を英語化することだろうと思う。
私企業を動かすものは損得勘定なのだから、英語を社内公用語化して(そして当然、社内文書が英語化されて)、何の得があるのかと考えて真っ先に考えられるのが人件費の圧縮だろう。
仮に事務処理部門が100名いて、月給が30万円とする。それだけでひとつき3000万円の人件費がかかっている。
発展途上国の同程度の人材を雇用するのであれば、多くてもひとりあたりで3分の1も出せば充分なのだから、2000万円の経費が浮く。
社内文書を英語化すればスタッフ業務のかなりの部分をコストが安い発展途上国アウトソーシングすることが出来る。外部に社内情報を出したくないのであれば、現地法人を作れば良い。
フィリピンとインドネシアには英語の読み書きが出来る教育水準が高い、安価な労働者がたくさんいる。さいわい、両国と日本の間の時差もほとんどない。
隣の机の人に「この書類、計算してまとめておいてね」と言うのも、インターネットを通してジャカルタ在住のインドネシア人にそう言うのも、インターネット時代にあっては意味はほとんど同じだ。
費用対効果上、割高な日本人を雇用しなければならない理由のひとつが日本語にあるならば、その理由を取り払ってしまえば、経済的に最合理の最適解がもたらされるだろうという、しごく単純な話である。
作業量、内容に対して固定費を圧倒的に圧縮できるならば、そのアドバンテージは価格競争力として提示されることになるだろう。
だから、完全に国内市場向けの企業であっても、価格競争力として社内英語公用語化の結果が生じるのであれば、完全に「閉じている」わけにはいかないのである。
むかしながらの内輪商売をしていた個人商店が大型スーパーやコンビニエンスストアの前にいかなる運命をたどったのかを思えば、「英語なにくそ」という心意気も空しく思える。
ある意味、いよいよインターネット時代の奔流へと私たちは突き進もうとしているのだ。これは良くも悪くも、日本人にとっては第二の敗戦である。
日本は焦土と化したからこそ、過去のしがらみを断ち切り、最合理の選択を重ねることが出来、それが高度経済成長へと結実した。大きな戦いに敗れたことがない英国が戦後、長らく停滞したのとは対照的だった。
「一番合理的な選択を重ねた者が生き残る」
当たり前の話である。
日本企業の海外進出といえば、製造部門を海外に出して意思決定や研究開発などの「高度な部門」は日本人が握ると未だに無意識に漠然と考えている人たちがいる。ほとんどレイシストすれすれの時代錯誤である。
日本語のネイティヴスピーカーであるということ以外に、優秀な途上国の人材と比較していったいそうした日本人たちは何のアドバンテージを持っていると言うのか。
日本と言う国家が縮小してゆく中で、日本語を話せると言うことにいったいなんのメリットがあるのか。
フィリピン人がタガログ語を話せても世界で生きてゆくうえで何の意味もないことを当然のように眺めていながら、日本人のみが、日本語を話す私たちのみが、日本国が縮小を続けてなお例外でいられると漠然とでも思うのであれば、それをレイシストと呼ばずに何と呼ぶのか。
ガラパゴスにはガラパゴスの愉しみがあるのだとか。それはそうだろう。ガラパゴス化が可能であるならば、それはむしろ望ましい。
良いか悪いかの話ではない。可能かどうかの話である。
所詮、社会的被扶養者に社会の舵取りを委ねるべきではあるまい。私はこの問題はまさしく踏み絵的に機能しているのだと思う。
現実社会に生きているのか、現実社会を生きている人たちに生かされて生きているのか。