外国文化の流入と韓流

韓流批判について排外主義であるとの批判がなされることは多いが、私はこれは排外主義とは別の話だと思っている。なぜならば、韓流の流入の在り方が、かなり特殊で、一般的な外国文化の流入とは異なっているからである。その特殊性に対して批判が生じているのであって、排外主義や反韓思想とは直接関係がないと見ている。
70年代、80年代から見れば、過去においても韓国芸能の日本での展開はあったわけだが、その際には反韓の動きがあったわけではなかった。チョー・ヨンピル、ケイ・ウンスクと、少女時代、KARAとの間に何の違いがあるのかという問題である。それを考える前に、一般的な外国文化流入のパターンについて考えてみよう。


[文明的な優位性がある]
主に科学技術が特に顕著であるが、「目に見える成果」が比較可能なときに、文化相対主義はナンセンスである。強制的な押し付けであれ、自主的な受け入れであれ、文明に程度において明らかに高低差がある時に、高から低へ、津波のごとく文物が流入することはよく見られる現象である。それに伴って文化的なコンテンツも明らかに一方通行になりやすい。


[珍奇性がある]
違う、ということ自体に珍奇性の価値があり、オリジナリティがあるがゆえに、かえって普遍性を持つということが文化ではよくある。ただし、おおむねそれはニッチ的な影響でしかなく、狭いコミュニティを越えて広がることは稀である。


[言語的な優位性がある]
拡散のされやすさ、に着目すれば言語的な優位性の問題を無視するわけにはいかない。言語的な優位性があれば継続的に文化を輸出することが可能であり、コンテンツ自体の優位性は二義的な問題である。


思い切り単純化して言えばおおむねこの3つの要因もしくはその複合の結果として文化の流出流入は発生するのであって、韓流が異質なのはこうした一般的な前提が欠落しているからである。他に類例はなく、あるとすれば教えていただきたいものだ。
つまり、一般的な文化流入流出のメカニズムとはまったく異なった作用が韓流には働いているのであって、その特殊性が批判されている時に、一般的な文化排外主義の問題として捉えるのは、実態からずれている。
その特殊性の正体はいったい何なのかと考えると、もちろんいくつかの推測はある。ソフトパワー重視の韓国の特殊な外交政策の結果であるということがひとつ。
しかし仮にそれを否定した場合、いずれにせよ過去の一般的なパターンとは異なったパラダイムの変革が起きていることになり、それはそれでひとつの世界史的な事件である。パラダイムの変革が起きている時に、従来の排外主義と同列に批判を捉えることはナンセンスである。