誰がために猫は鳴く

こちらの記事。
http://naochago.exblog.jp/21402108/
簡単に要約すれば、猫の島として知られる宮城県田代島に、自分の飼い猫と思しき猫4匹を置き去りにした人がいる、そういうのって、地元猫に受け入れられなくて、苛められて野垂れ死にするのが関の山なんですけど、この人でなし、という話。
この人の怒りポイントがよく分からない。誰のために怒っているのか、何のために怒っているのか。
ゴミを持ち込むなよという地域エゴの話としてなら、まあそうだろうね、と思うが、捨てられた猫の身になって怒っているように見える。
だが、飼い主はおそらくは飼えなくなった事情があったから、田代島に置き去りにした訳で、捨てる、の反対語は、捨てない、ではない。保健所なり獣医のところでなり殺処分するということだ。そこのところをこの人ははっきりと言っていない。そこが感情的にも見え、怒りのポイントが極めて偽善的に見える理由だ。
猫の立場になって見たら、殺処分されるのと、サバイバル確率は非常に低いけれど、田代島に置き去りにされるのとどちらがいいですかという二択だ。さて同じ立場に立たされたら私たちはどちらを選ぶだろうか。生き延びる確率がある方を選ぶのではないか。猫の立場から見ればこの人の怒りは余計なお世話というしかないのではないか。
そもそもから言えば田代島という猫の生育環境は極めて異常な状況にある。それは人為的なものだ。猫はそもそもなわばりをもつ肉食獣だから、複数がなわばりを共有することはしないし、島と言う限られた面積であれば野生の肉食獣がテリトリーを確保したうえで世代を重ねていくコミュニティを維持するのは難しい。難しいからこそ、他に類似の地域が少なく、田代島は猫の島という特殊性を持っているのだ。
田代島の猫たちは野良猫ではあっても野生猫ではない。
それが経済的な動機か、宗教的な理由からかはさておき、人為的な働きかけが田代島の猫集団にかかっている結果、田代島では本来あり得ない数の猫が生息しているのだ。それは、無意味に蕩尽されてゆく膨大な個体を産むことになり、自然界ではありえない規模の猫の衰弱死、餓死によって成り立っている。
それが長期的に固定化されているのが田代島なのであって、そこで猫が可愛い可愛いと写真を撮る写真家と、そういう状況を利用して、ならば捨てなければならなくなった飼い猫が少しでも生き延びる可能性に賭けたその飼い主のどちらが不道徳かと言えば私にしてみれば圧倒的に前者のように見える。